シンガーソングライターの大城光恵さんが2023年2月5日死去という報道がありました。
死因は「乳癌」と「肺炎」ということです。
曲としては「以心伝心しよう」や「中年よ大志を抱け」などが有名でしたね。
今回は、そんな大城光恵さんのwiki風プロフィールや経歴!出身高校や大学・学歴もお伝えさせていただきたいと思いますのでご覧ください。
大城光恵のwiki風プロフィール!

- 名前:大城光恵(おおしろみつえ)
- 本名:長峰光恵(ながみねみつえ)
- 生年月日:1965年5月3日
- 年齢:57歳没
- 職業:シンガーソングライター
- 出身地:宮崎県宮崎市
大城光恵 音楽はいつから?

大城光恵さんはが音楽を始めたのは幼稚園のころ。
地元の音楽教室の初等科に通っていたそうで、小さい時から歌が好きで歌ってたんでしょうね。
ですが、家が裕福ではなかったので3年ほどで辞めてしまいます。
それでも、独学で音楽は続け、11歳の頃には洋楽に夢中に。
目標はいつかバンドを組むことでした。
大城光恵 バンドの目標が遠く…しかし

大城光恵さんはバンドを組むという夢を目標に中学に進学。
そして、中学1年生の夏に転校することになりバンドの目標が遠のいてしまうことに。
しかし、目標は簡単に捨てられないもので、
「それなら、ひとりででもできるフォークギターがあるじゃないか!」
と、中学一年生のときのお年玉でフォークギターを買いオリジナル曲を作り歌うようになります。
大城光恵 バンド結成!ヤマハポプコンへ!

大城光恵さん中学校を転校してから、新しい学校でも友達が増えバンドを結成。
そして、中学3年のときヤマハポピュラーコンテストの宮崎地区大会に挑戦します。
だがしかし、メンバーが欠席してしまう事態に。
曲はバンドの曲をする予定だったが、仕方なく自分のオリジナルソングで出場。
それがなんと『県グランプリ受賞』することに。
やはり素質があったんでしょうね。
大城光恵 プロデビューのきっかけ!

大城光恵さんは『県グランプリ』を受賞してから、毎年エントリーしています。
そして、高校2年生の時、「第24回ヤマハポピュラーコンテスト全国大会」でグランプリ受賞。
曲名は『哀ダンサー』
そして、ヤマハ振興会主催の「第13回世界歌謡祭」で同曲が見事に入賞。
この出来事が、大城光恵さんがプロデビューするきっかけとなりました。
それでは、その後の経歴・学歴も含め見てみましょう。
大城光恵の経歴!出身高校や大学・学歴も!

それでは大城光恵さんの学歴・出身高校から見てみましょう。
大城光恵の学歴!出身高校!

大城光恵さんの出身高校は宮崎女子高等学校です。
画像は古いものですが、円形校舎だったようですね。
この、宮崎女子高等学校は2003年に男女共学となり名称は、宮崎学園高等学校に改称されています。

現在は建て替えられ、立派な校舎が完成しています。
大城光恵の出身大学とは!

実は大城光恵さんは、高校卒業後に大学に進学されたという情報はないんですね。
なので、大学には進学せず音楽の道へ行かれたのではないかと思います。
何か情報がわかれば追記させていただきます。
大城光恵 プロデビュー

大城光恵さんのシンガーソングライターとしてのデビューは1992年7月です。
曲は『中年よ大志を抱け』。
この曲は、大和証券CMソング・ニッポン放送「高嶋ひでたけのおはよう!中年探偵団」主題歌としても使われています。
大城光恵 歌手活動を休止

デビュー曲『中年よ大志を抱け』のあと、1992年11月には『青年よ大志を抱け』をリリース。
この曲も同様、大和証券のCMソングに起用されています。
1993年7月には、『以心伝心しよう』をリリース。
NHK「みんなのうた」に起用されました。
そして、1995年12月にリリースされた『水色の冒険』を最後に歌手活動を休止されました。
活動休止はお母さんが倒れられたからではないかと思います。
大城光恵さんは結婚後、母親が脳出血で倒れ介護のためにアーティスト活動を自粛されたと語っています。
大城光恵 宮崎で母の介護・そして自身も病に

大城光恵さんは1995年歌手活動休止された後、故郷の宮崎へ。
この頃には結婚されておられたようで、その後子供にも恵まれています。
母親の介護をしつつ、CMなどの作詞作曲を細々とされていたそう。
そして、子育ても落ち着いたころにライブ活動を再開。
しかし、2016年ごろから病に倒れ療養生活を強いられることに。
その後、2023年2月5日に亡くなられました。
大城光恵のwiki経歴!出身高校や大学・学歴も調査!まとめ!
今回は、大城光恵さんのwiki風プロフィールや経歴!出身高校や大学・学歴もお伝えさせていただきました。
シンガーソングライターとしてデビューされてすぐに、お母さんが倒れられたということで思ったようにはいかなかったのかもしれません。
しかし、作詞・作曲なども細々とされながらですが、子供にも恵まれ幸せな人生だったのではないでしょうか。
ご冥福をお祈りいたします。





コメント